2-3)ただ自分に絶望しているだけなんだ
- いのきち
- 2 日前
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更新日:18 時間前

高校は地域トップの公立高校に特に苦労もせずに入った。ただ、地域トップとはいっても、私立のそれの方が遥にレベルは高く、東大に現役で進学する人が数名、というレベルの学校だった。
高校に入ろうが、彼にとってその人生が、すでに終わってしまったものであることには変わりはなかった。
中学受験の時に天才としての彼は終わりを迎え、そして、ハッキング事件で思春期を失った。男子校というのは彼には少し気楽で、また、進学校で学力レベルの高い子が多いので、妙に彼に絡んでくるような奇特な人もほとんどいないことも中学校よりはよかった。しかし、それだけのことで、部活に入ることもなく、特定の友達を作ることもなかった。成績は高校に入ると中程になった。上位の中では特別に成績がいいというほどでもなくなっていた。
文化祭についても彼は特に何にも関わらなかった。クラスの出し物(クラスで迷路を作ることになった)にも参加をしなかったし、それを誰も特に咎めなかった。池内はまあしょうがない、という雰囲気だった。ただ、学校は文化祭の日は登校日で、行かなければいけないので、しょうがなく登校はしていた。
文化祭の喧騒、そして、男子生徒たちの積極的な行動とそのバイタリティは、彼には奇妙なものに見えた。そんなに女子と会いたいならば、そもそも男子校を選ばなければいいのに、この騒ぎようは一体なんだろう。そして、誰がどの子と歩いていたとか、あいつが隣の高校の女の子と2人で歩いていたとか、誰彼の友達が3人女の子を連れてくるから、などなどに一喜一憂している男子たちと、自分が、決定的に生き物とした何か違いあるのではないかとすら思えた。
でも、それは違った。
池内も、そんな彼らと流れている血はすでに同じものだった。
2日目の午後、特にすることもなかった彼は、中庭におり体育館の方に向かう。
体育館では合唱部が出番を迎えていて、それでも覗いてみようと思った。下駄箱で靴を履き替え、校門の横のくすのきのそばを通った時、彼の視界の左側にはいった映像に、彼は強烈な電気ショックを受ける。あまりにもその電気信号は強すぎて、彼の頭か心の中の何かを焼き尽くす。
そこには、沙織がいた。
中学校の時に彼が恋焦がれ、ハッキングという形でストーカー行為を働いた、その対象である沙織が、ラグビー部の、土で少し汚れたジャージを着た高田と座って何かを食べている。2人の距離は1mもなく、彼にはその間は極めて親密なものに見えた。
池内は立ちすくむ。文字通り、立って、動けなくなる。3度目の絶望が彼を襲う。
彼の明晰だったはずの頭脳は、この事象の持つ意味を考えることはできなくなっていた。
夏の恵みをたっぷりと吸収し、ふくよかに葉を広げるくすのきの下で、彼らはとても祝福に満ちているように見えた。彼らが幸せなのかどうか、彼らがうまくいっているのかはわからない。けれども、彼らが世界から祝福されていることは間違いないことに見えた。
そして、その一方で、凛々しく人々を迎えるくすのきの反対側で、池内は強烈なカウンターパンチをみぞおちに受けうずくまっている。
彼には、自分すでに、誰からも祝福されることなく、誰からも歓迎されることのない人間であるように思えた。どんなことが起きようとも、どんなに彼が足掻こうとも、彼にはすでに沙織と2人で、くすのきの木陰で昼下がりを過ごすことはできない。たとえ地球の地軸の南北が入れ替わろうともそれだけは絶対に起こらないことは間違いなかった。
彼はくすのきの横に立ち、ただただ彼らを見つめる。いや、正確に言えば、彼らのいる世界、異世界の絵を無機質に見遣り続ける。そこにはすでに感情はなく、彼にとっては無意味な世界で無意味な営みが行われている様子を、感情を無くしたロボットのように見続ける。
一瞬だけ、沙織は彼のことを見る。彼のこと、あるいは、彼のいるあたりの景色を見る。しかし彼女は池内には気づかない。
池内には、沙織が確かに自分を見たことがわかった。あるいは、彼女の視界に自分が入ったことがわかった。そして、自分の姿が彼女にとっては、何の反応ももたらさないものであり、後ろにある水道の蛇口たちと変わらない、祝福された世界の一つのオブジェクトでしかないことを悟った。
彼は首を上に傾け、空を見る。しかし、秋の空は大きなくすのきの枝と葉に覆われ見ることができない。しかし、くすのきが祝福し見守っているのは彼ではない。断固として彼ではない。僕であるものか、僕であるはずがない。池内は心にそう唱える。そう唱え続ける。
その日の夜、彼は家には帰らず学校の教室に居続けた。
教室に最後まで彼が残っていても、誰もなんとも思わなかった。21時を過ぎると守衛が見回りにやってくる。どこかのクラスの誰かが急いで廊下を走る。水泳部の部室の方から何やら歓声が上がる。しかし、その5分後には学校には静かな秋の夜が訪れる。文化祭の後だろうが、普段の夜だろうが変わらない。真っ暗な校舎に少しの風が吹き、所々で何かわからない音がする。池内は、教室の一番後ろの窓を開ける。大きく開け放つ。
ああ、なんていい風なんだろう。
彼はまとわりついてくるような、だけど涼やかな風を全身で感じる。両手を少し脇から離し、手のひらを広げて、控えめに胸を開いて空気を吸い込む。コオロギの鳴く音がする。コオロギか、コオロギには脚に感覚器があり、そこを刺激されると体が硬直する。そして、自分を捕まえようとするものから逃げようと小さな隙間に飛び込んでみたり、あるいは、擬死状態になったりすることがある、彼は小学生の頃、ありとあらゆる昆虫について膨大な知識を得ていた。その中でも、死んだふりをするコオロギには特に不思議な愛着を持っていたことを覚えている。
もう、強がるのはやめよう、と思った。
彼には、自分がこれ以上生きていても、すでにどこにも行けないであろうことが、数学の定理のように明確に思えた。沙織を好きになった時、何かが起こるような気持ちがした。高校に入った時にも、もしかしたら新しい啓示が降りてくるのかもしれないとわずかに期待をした。
しかし、実際に起こったことは彼の期待とは正反対のことだった。そして、抜け殻である彼には、これからの人生でも、何かに期待をすれば、必ずその逆の結果が起こるのだろうと思えた。そして、彼には3度目のこの衝撃を経た今、もうこれ以上同じ思いに耐えられるとは思えなかった。もう一度同じようなことがあれば、自分が自分でなくなり、恐ろしい行動をしてしまのではないかと思えた。だから、彼には、生きていくためには「自分に何も期待しないで生きる」ことしかもはや選択肢はなくなっていた。
そう、だから、もう強がるのはやめよう。
自分に、何も期待できないならば、自分として生きていく価値はないだろう。自分が生きていくことに対して、何の期待もできないない人間が、この世界で生きてく価値が何かあるとしたら、それは自分の存在をいち早く消すことしかないと思う。
彼は椅子から音もなく立ち上がり、黒板に向かう。
「自分の存在が消えること、それのみが、自分がこの世界から期待されていること」
黒板の真ん中あたりに小さく白いチョークでかく。名前はいらない。名前などすでに必要ない。
教室を出て、4階の廊下を渡り、屋上へと進む。そして、屋上の給水塔の梯子を登る。
ああ、ここまでくると、くすのきと同じくらいの高さなんだ。彼は左手に見えるくすのきのその一番てっぺんを見る。
この木のこの一番上の部分を見たことがあるのは、もしかしたら僕しかいないのではないかと思う。上から見た彼は、まるで緑の手を大きく広げて僕を迎えてくれているように見える。暖かい緑色。そして、それを支えるように広がる褐色の枝たち。
いいんだよ。何も恐れることはないんだ。君は君でいればいいし、君が考えたことを躊躇せずにやればいい。君の人生に対して私は何も言えない、けれど、どんな決断も、どんな後悔も、どんな幸せも、どんな不幸も、どんな憤りも、どんな怒りも、どんな人生も、みんな綺麗だ、みんな美しい。でも、これは運命ではない。運命を呪うのは、君たちのすべきことではない。運命を呪いたいならば、その運命を、宿命を、生きて断ち切るべきだ。命をかけて、自分の運命に立ち向かうべきだ。
No fate.
何かの映画の言葉を呟く。そして右手をぐっと握り締める。
「わかっている。ただ自分に絶望しているだけなんだ。それだけなんだ」
そして彼は、くすのき目掛けて空に飛び込んだ。
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