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(7)彼女の回復と僕の起業

  • 執筆者の写真: いのきち
    いのきち
  • 3月3日
  • 読了時間: 7分

三十歳前後

 9月になって彼女のお店で問題が発生した。現場の店長として頑張ってくれていた彼女の友人が、実は会社のお金を不正に使い込んでおり、その上、もうこんな仕事はやってられない、すぐにでも辞めたいと言い出してきた。


 彼女はひどく混乱していて、僕がその店長と面談をしてこようかと言ったけれども、「私と彼女の問題だから」と言って引かず、何度か二人で面談をした。


 そもそもが、彼女の友人からすると、彼女と一緒に立ち上げると言うから、それで話としては乗ったのだけど、その彼女はこのような状態で、ほとんど現場は任せきりになっていた。それにより、本来の負担よりも多くの負担が店長にかかることになり、それが「話が違う」と思うようになったきっかけだった。


 給与面では遅滞なく支払われていたけれども、仕事面での不満から次第に会社の現金に手をつけるようになった。特に、小口の現金で私物を買ったり、架空のスタッフを計上して、そこに給与を振り込んだりしていた。それは、店長の友人の口座で、あの手この手で会社のお金を不正に使い込んでいた。そのことを8月に彼女が突き止めて店長に確認をしたところ、その子は謝るどころか、取り乱して逆上し、「お前が悪いんだ。嘘つき」と言い、すぐにでもこんな職場はやめたい、と言い出した。


 店長の言い分もわからないではないが、会社の金を使い込んだ挙句に、逆上して辞めるなど、残念ながら社会人としての適性に欠けると言わざるを得ない。その点では、そう言う人をパートーナーに選んでしまったことは彼女の問題だった。僕らはそうやって自分に矢印を向けてものを考えることができる。だから、こう言う事態にも割と他責にならずに、前を向くことができる。(もちろん、適度に他責になれないと、彼女のようにメンタルを病んでしまいがちだが)


 結局店長には10月でやめてもらい、そこからは彼女がオーナー兼店長として現場に入ることにした。それに伴い、形だけは在籍していた新卒来の会社は正式に退職をすることにした。


 現場に入ってみて、改めて事業を見てみると、いくつか問題があった。まずは、赤字状態であることで、それ自体はわかっていたことだけど、家賃の割には周辺環境がよくないことが改めて見られ、駅から遠いことを初めは意図して選んだけれども、明らかに、人の流れは駅前が中心だった。また、自転車置き場が明らかに少ないことも、お店の使い勝手を悪くしていた。



 そこで、ここは思い切って移転をしてみようと言うことになった。

 このことについては、僕もかなりしっかりとリサーチをして一緒に考えた。交通量をいくつかの地点で調査し、類似店へモニターへ行ってみたり、パチンコ屋の台に座り、隣の人とおしゃべりをしてみたりした。そして、並行して不動産屋も数多く周り、駅前も隈無く回って物件を探してみた。


 週末や、時に平日の夜を使ってのそのような調査や実地活動は、僕にとっても普段の仕事と違ったモチベーションをもたらした。机上の空論を振りかざすコンサルティングよりも、こうして街の風を受けながら調べ、聞き、そして考える。その生きた仕事、生きた人と関わる仕事は、僕の心を大いに刺激した。


 2ヶ月ほどそのようなことを一緒にして、結論として、駅前に見つけた物件に来春に移転をすることにした。


 ただ、それにあたっては、彼女の会社には資金的な余裕が乏しくなっていた。すでに手持ち資金は200万円を切っており、さらに毎月赤字が出ていた。その状態で、移転には500万円ほどの追加の投資が必要と思われた。


 彼女自身としては、銀行をあてにしたかったけれど、それはおそらく無謀で、立ち上げて1年ちょっと、大赤字な状態でお金を貸してくれるとは思えない。親御さんと親戚に頭を下げて数百万円を借りるのが限界だった。


 そこで、僕は、今の会社で結構深く関わっている友人を一人説得して、200万円ずつ、合計で400万円を彼女に融資した。僕は、残念ながらそんなに蓄えはないので、自分の父親から生活費として偽って200万円を借りて、それを彼女に融資した。みえっぱりもいいところだけど、事業は、やるときはどんな手を使ってもやらねばならぬ時もある、と腹を括った。



 店舗の移転は、移転費用を節約するために、僕と、会社の別な友人を2名ほど、焼肉を手当てに用立てして、数日かけて自力で行った。軽トラックを借りてきて、台車、毛布、養生資材を用意し、10往復以上しながら、店内の機材を移動させた。重たい什器、大きな資材も数多くなあり、慎重に、そして時に体力的に目一杯になりながら移動をさせた。


 移転と共に、十分に準備をし計画をした販促活動を並行して展開した。ここも、媒体に頼るのではなくて、駅前の人通りに対して丹念に手配りをし、そして彼女は駅前の商店街の1軒1軒を丁寧に回っていき、自分の事業の説明と、思いを語って回った。文字通り、小さなスナックや怪しい麻雀店、風俗店も含めて全てのお店や事業所を回っていった。


 4月の1週目の移転オープンにあたっては、一度だけ折り込み広告を入れた。そうすると、しっかり耕された土壌に種が蒔かれたかのように、一気に芽がで始めた。折り込み初日で実に40件を超える問い合わせがあった。今まではグランドオープン日でも12件の問い合わせだったから、比較にならない。さらに、その勢いは、それから4日間にわたって続き、累計で120件を超える問い合わせがあった。



 お店のムードは一気に変わった。彼女がお店に入ることによって、彼女の天性の人受けの良さ、明るさが前面に出て、お店は華やいだ。


 女性客中心のそのお店は、彼女に会いたいがために、彼女と話したいがためにくるお客さんも増え、スタッフも明るくなり、そういう状態は客が客を呼ぶようになった。200名程度だった登録会員は、4月のリニューアルオープンから、3ヶ月で500名を超え、彼女は寝る間もないくらい大変そうだったけれど、おかげで、毎月の収益は一気に逆転し、彼女の給与を引く前では、100万円近い利益が出るようになっていった。


 

 そのような中、彼女は確実に回復をしていった。


 忙しくて、疲れ果てるので、夜は少しビールを飲めば、考えることもなくバタンと眠りについた。そこには、だって、も、しかしもなかった。全身全霊をかけて動いて疲れ果てた体は、無条件に眠りを求めていた。睡眠薬を飲むことはほとんどなくなり、先生からも、「もう基本的にはいらないでしょう」と言われた。週末や、早く上がる夜などは、積極的に、これまでご無沙汰していた人々と飲み歩くようにもなっていった。帰ってくるのが深夜を回ることも多くなった。


 

 僕自身もこの過程を通じて、大きな転機を迎えていた。


 彼女と共に事業の支援に携わる中で、僕自身も、自分で事業を立ち上げたいと言う気持ちが明確になってきた。


 そもそもは、今の会社を選んだのは、横文字のコンサルティング会社と言う理由だけで、横文字のコンサルティング会社を選んだのは、特にやりたいこともなかったので、給与の高そうなところから業界を選んだだけだった。よく調べもせずに入ったので、入ってみると、実際はほぼ「営業会社」であって、「コンサルティングっぽいことをして」「商品を売る」会社だった。完全に体育会系の会社で、24時間年中働くことが美徳とされた。ただ、そのおかげで、無茶な業務もたくさん振られるけれども、それを何とかやり切ろうとすることで、仕事を遂行する上での色々なやりくりの仕方や、業界の知識、目標に向かっての業務設計など、確かに力はついたと思う。力をつけないと、すぐにやめるしかない状態に陥ったから、必死だった。


 でも、この仕事を好きだとは思えないまま10年近くが経っていた。もう30歳を超えた。


 もともと、「自分で事業を興してみたい」という漠然とした気持ちはあった。その気持ちは、日々の忙しさの埃が何重にも何重にも積み重なってしまって見えなくなっていたけれど、彼女の事業の手助けを実地でしているうちに、その塵芥は吹き飛んでいって、本来持っていた剥き出しの野心みたいなものが自分でも見えるようになってきた。


 その気持ちと、その頃に吉田松陰の話を読んでいて、教育の仕事をしたいと思ったのと、どちらが早かったのかはよくわからないけれど、僕の中に、やるならば教育事業という気持ちがもたげていた。松陰については強く感化されており、伝馬町の彼の囚われていた獄の跡を見にいったり、下田に行って、彼が黒船に乗り込むために隠れていた弁天島に行ってみたりした。


 その2つが合わさったことを自分で自覚した時、彼女に

「僕も自分で会社を起こそうと思う」

ということを伝えた。この時の彼女の喜びようは忘れることはできない。今まで一番の笑顔で、そして、全力で

「絶対にやったほうがいい。絶対応援する」

と言ってくれた。こんなに彼女が僕のいうことに全面的に賛成してくれることは滅多にないことで、特に理由も聞かなかったけれども、僕の腹は固まった。

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