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(6)彼女の既視感

  • 執筆者の写真: いのきち
    いのきち
  • 2月24日
  • 読了時間: 5分

三十歳前後

 僕は早速に新しい家を探した。社会人に入ってから、実に7回目の引っ越しになる。


 家を借りて、契約更新をしたことが一度もない。物件探しは手慣れたものだったが、今回ばかりは少し難渋した。二人用であり、猫が飼えて、神楽坂近辺で、できればそれなりに家賃は抑えたい。いつもは、1箇所不動産屋を回ったらそれで決めてしまうのだけど、今回は約1ヶ月にわたり7件の不動産屋を回った。最終的には、外苑東通りの近く、牛込柳町駅の近くのマンションに75平米で7階の部屋をを借りた。家賃は正直、僕の収入の背丈をオーバーしていたけれど、ボーナスまで考えればなんとかなるだろうと思った。


 物件を借りたのが4月で、5月に僕が引っ越しをし、7月になって退院をした彼女と、預けていた猫が一緒に合流をしてきた。例によって2つの引っ越しは、全て僕がレンタカーを借りて自分で取り仕切った。


 一緒に住んでみると、彼女は彼女のままだった。服は脱ぎ散らす、洗濯は大いに溜め込む、洗い物は嫌いでできる限りやらずに、僕がしびれを切らすのを待つ。お酒を飲む量は少し減っていたけれど、隙さえあればパスタばかり食べるところまでそのままだった。でもまあ、それはそうだ、色々あったとはいえ、それもこの2年の話だ。30歳前後の人間の生活癖はそう簡単に変わるものではない。


 そう言う1つ1つの所作や習性は少し僕をほっとさせた。あるいは、それは彼女も同じかもしれない。靴下をいくら言われても反対にして洗濯機に入れてしまうこと、洗濯物を干すときにパンパンと皺を伸ばさないで干してしまうこと、洗い物をすると洗い残しが目立つこと、ポテトチップスを食べるときに、どうしてもボロボロと食べかすをこぼしてしまうこと。そう言う1つ1つを、彼女は飽きずにめざとく指摘してきた。昔は、そう言うことに、本当にイライラしているのだろうなと思っていたけれど、こうして三度目に一緒に住んでみると、お互いに幾つかの傷跡を背負ってみると、そう言う所作もある種の安定剤に感じる。そうやって人は、いろんなことに奥ゆかしくなっていくのだろう。

 

 2周回った感じのする久々のお盆の頃、夕立が一つ過ぎ去った後に、湿った空気を吸いに外に出る。


 外苑東通りを横切り、大きな印刷会社の裏手にあたる小さな古い道を、飯田橋のほうに向かって歩く。少しだけ坂を登ると、右手に、やっているのかどうかわからないような喫茶店をすぎ、坂を登り切ると、左手に場違いなほど大きな洋館が出てくる。マンションや高級な戸建ての立ち並ぶ中に、歴史の教科書に「明治の代表的な建物です」と出てきそうな建築物で、入り口だけが和装になっていて、2Fから3Fにかけては、白色に塗られた壁に、ダークオークの枠の、小さな窓が並ぶ。その窓には、病院で見るような、上から吊り下げられた白い日焼けしたカーテンが下げられている。急な夕立を受けて建物全体が湿り気を持っているように見える。


 夏の夕方の喧騒や匂いとは隔離されたようなその一画を、彼女は立ち止まって凝視する。文字通り目を一点に固定させ、瞬きもせずに建物を含むその空間をぎゅっと見つめる。

「誰かがいる」

2分ほどしてから彼女が言う。

「どうして、どうして、ここにこの建物があるの?」

彼女の言うことがわからず、僕は一緒に建物を見る。人の気配はしない。どちらかというと、長いこと空き家であるような印象を受ける。

「誰かが死んでいると思う、この中で」

「どうしてそう思うの?」

「違うの、思うんじゃないの、私は見たことがあるの、この中を」

「でも、それがいつで、どこのことかわからない」

彼女はそういうと急に俯く。そして小刻みに震え、首を小さく振る。僕は彼女の肩を支え、震えが収まるの待つ。

 都心では蝉の鳴き声はほとんど聞こえない。けれど、この辺りの近くには公園や学校があり、雨上がりの夕方の喧騒の中に蝉の音が混じっている。彼らは雨が降っている時は、どんな姿勢で、どんな思いで雨を見ているのだろう。



 5分くらいたってから、彼女はふと顔を上げる。ほんの少しだけ泣いたように見える。

「ごめんなさい。たまに、頭の中を何かが通過するの。本当にたまに。何かの合図が私に届いて、その合図を受けて、私の頭の中にある何かが投影されるの」

「初めの頃は酷かったわ。1日に何十回とそう言うことがあった。いろんな声もした。大体は私を責める声だった」

「もう耐えられないと思い睡眠薬を飲んでぶっ飛んで、そうしてしばらくしてからは、だんだんとその回数は減っていった。治療のおかげなんだと思う」

「今はもう声や音は聞こえない。だけど、たまに、既視感のようなものが現れて、それが何なのかを追い求めてしまう。追い求めてもいつもそれが何かはわからなくて、何も見つからなくて、それでまた、何かを考えてしまう」

「そうなると、胃がきゅーっと締め付けられて、とてもとても悲しい気持ちになるの。どうしていいかわからないくらい」

「でも、その回数は減って、そして今みたいにあなたに肩をさすってもらうと、ちょっとした胃痛くらいにしか感じなくなってきた」

僕は古めかしい洋館をもう一度見上げる。よく見ると、軽井沢とかそういう、白樺の森の別荘とかにありそうな風体だ。

「行こう。連れて行きたい焼き鳥屋さんがあるんだ」治そうとか、変えようとか、そう言うことは思わないでほしい、ということだった。

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