(10)笑えよ。笑おうよ
- いのきち

- 3月19日
- 読了時間: 4分

東京に戻り、数日してから、彼女から「別れたい」と言われた。
もう三度目になれば、予測すらついたことだった。
僕が仙台に行っている間に、洋服など必要なものはすでに新しい男の家に持ち出していた。今までの2回は、メールでのやり取りだったけれど、この三度目は、神楽坂の自宅で一緒に話をした。2匹の猫も一緒に。
「悪いとは思う。感謝しても仕切れない。それもわかっている。でもしょうがないの」
「わかってるよ」
彼女は僕をまっすぐみる。僕は少し左上を見る。
「いつもそうなのね。怒ってくれないのね。馬鹿言うなとか、ふざけるなとか、やめろとか、何にも言わないのね」
「大学の時の彼は、私を殺そうとしたのよ」
「知ってるよ、それは」
彼女は両方の手をテーブルに乗せる。
「そういうあなたの、なんでも知っている、わかっている、みたいな姿がダメなの。だって、本当は、何もわかっていないし、何も理解していない。いつまでそうやって、自分の殻にこもっているの?本当の自分と向き合わないの? 私は、あなたといて、いつもあなたが私に対して、本当の自分を隠しているように見えていた。ずっと、本当は私には心を開いてくれていないと感じていた。すごく寂しかった。ううん、それよりも、すごく申し訳なかった。あなたは、こんなにも優しく、こんなにも素晴らしい能力を持っているのに、それに蓋をして、それを開かないようにしている。それは、私の問題なのではないかと思うことすらあった」
「でも違うわ、きっと。あなたは、私といても心を開けないのよ。私といるべきではないの。そして、私も、そう言う思いをいだきながら、日々を生活することはできない。苦しいし、辛い。時に悲しい。それよりも、純粋に、100%の自分を開いて、私を迎えてくれる人と生きたい。私のことを、100%必要とする人と生きたい。あなたは、最後まで、私にとっては必要な人だけど、私は、最後まで、あなたにとって必要な人ではなかった。それは、とてもフェアではないと思う」
「あなたがいなければ、私はもしかしたらもう社会に復帰できていなかったかもしれない。あのまま精神を病んで、最終的には自分で自分の命を絶ったんじゃないかと思う。だから、あなたのことを、一生大事に思うし、一生感謝する。でも、それと、これから誰と一緒に暮らすかは、同じことにできなかった。やっぱり」
彼女は少しビールを飲む。
そうなんだろう。きっとそう言うことなのだろう。
僕は、彼女のために、彼女を助けたのではないんだ。僕は、僕自身が救われたいがために、あるいは僕自身の心が満たされたいがために、彼女を助けていただけなのかもしれない。そして、彼女にはそれがわかっていた、初めからなのか、途中からなのか。いずれにしても、そう感じて仕舞えば、全ては違う色を持って見えてくるはずだ。彼女には彼女の人生があり、僕には僕の人生がある。その中で、大事にするものがそれぞれにある。彼女が、自身の大事にするものを守るために僕から離れていくと言うのは、一度目も、二度目も、三度目も、全く同じことなのだろう。
海の風を思う。
全てが瓦解した。僕自身が彼女に対して行ってきた無償のサポート、僕の男性としての存在、僕のこれまでの人生において、良かれと思ってきたことは、全ては偽善であり欺瞞だった。彼女が突きつけた事実はそう言うことだった。
わかっていたんだ。どこかからか。どの時点からか。僕自身も。でも、それを認めることはできなかった。だって、それは、僕の存在を否定すること、生きてきた価値を全否定することだから。怖かった。
けれど、それでもいいじゃないかと思う。全てが消え去っても。32歳にして、全てが消えても。全てが否定されても。
その代わり、僕は笑ってみる。
初めはなんとか、左の頬をほんの少しだけ。次に、唇を噛み締めて横に広げ、右の頬をあげてみる。
「笑える」
僕は、その顔で呟く。
「笑えよ。笑おうよ」
精一杯の勇気を振り絞ってそういう。そう世界に問いかける。そして、小さくくすりとして見せる。
僕のその姿に彼女は固まる。目をまん丸にして、瞬きすることも忘れて僕をみる。僕はその間中、人工的ににやにやとする。ようやくビールを一口飲んでみる。
「黒ラベルじゃないんだ」
プレミアムモルツの缶を見ていう。
彼女も少し、少しだけ笑う。
「悪かったわね。私はプレモルが好きだから」
「知ってるよ」
彼女は吹き出す。僕は大きく息を吸う。
「僕は、楽しかったよ、この2年。いいんだ、それで」
「私も」
彼女も肩で大きな息をする。
「ありがとう。最後に、あなたの笑った顔が見えてよかった」
彼女はにこりとする。わざとしてくれたのかしら、と思う。でも、その小さな笑顔は、僕が見た彼女の笑顔の中で、最も神々しかった。

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