(11)怒り
- いのきち

- 3月19日
- 読了時間: 8分

市谷柳町の物件の引き渡しの日。不動産屋との待ち合わせが14時。12時ごろにマンションに行き、何もなくなった部屋に立つ。タバコに火をつけようと思うけれど、少し躊躇して、ベランダに出る。
外苑東通りはずっとずっと拡幅工事を続けている。昼も夜も、どこかかしこで工事をしている。それに加えて、拡幅後の道に沿う形で、15階立て程度のマンションが続々と作られていた。ベランダから見える景色は、工事中の道路と、立ち並ぶマンションと雑居ビルっばかりで、南を見ると防衛省の敷地の方に、1つだけ、いわゆるタワーマンションが見える。日曜日の午後の外苑東通りは平日よりは車の数は少ない。走る車には、圧倒的に外車比率が高い。
南北に流れる道は、まっすぐ南に行けば四谷を抜け、神宮外苑、国立競技場を抜けて青山一丁目あたりへ抜ける。自転車で散歩をするにはいいコースで、クロスバイクで駆け抜け、青山通りを左に折れて赤坂まで行き、九州じゃんがらラーメンを食べて帰ってくると言うのは彼女と何回か行ったコースだ。北に行けば、早稲田と神楽坂の間を抜けていき、椿山荘の麓、神田川の遊歩道に出る。この道を西へ、僕のダイエットと彼女の体力回復を目的に、週に2回か3回、一緒にランニングをした。
外苑東通りと大久保通りの交差点を神楽坂方面に向かう。神楽坂ではどれだけのお店を回ったことか。
価格的には相当に背伸びをしたところだけど、食べ物と飲み物にはお金を使ってもいいと言う価値観は共通していただので、それこそ湯水の如く、飲み歩くことにお金を使った。
大久保通りを早稲田方面に向かうと、彼女が入院していた病院がある。散歩にはいいコースで、病院の下の公園のベンチに行き、一緒にビールを飲んだりした。そうして、あそこの部屋にはどんな子がいて、どんな様子だったかを詳しく話をしてくれた。そういう彼女を見て、彼女が回復していく姿を嬉しく思った。
「今日で終わりさ」
ベランダの向こうの、小さな隙間のような空間に言葉を投げかけてみる。
彼女と初めて会ってから、実に11年が経っている。これで彼女と会うことはもうないだろうと思う。Facebookとかでは繋がっているかもしれないし、その中で言葉も少し交わすかもしれない。けれど、僕と彼女が何かで一緒になることはないし、多分、向かい合うこともないのだろうと思う。今まで2回の別れとは違うんだ、根本的に違うんだと言うことを、直感的に感じる。
出会った頃を思う。内定者研修の後の飲み会の後、朝の2時を過ぎた居酒屋で、気がついたら僕と彼女しか起きていなかった。彼女を意識し始めたのはそれからで、物事に対しての考え方や、体育会系的な前向きさが共通していて、食べるのが好き、飲むのが好きだった。すぐに仲良くなり、4月の入社時には会社の近くで同棲を始めた。2年目になると僕が仙台に飛ばされた。それでも、週末は東京に帰り、彼女と過ごした。家は三宿に移った。彼女や、多くの変わった人たちと過ごした三宿の夜は、最高に楽しい日々だった。
しかし、僕は、彼女の気持ちが離れていっていることに気づかなかった。これは、そもそも女性経験が少ないこともあるし、仕事が忙しいこともあっただろう。仙台から盛岡に向かう途中で別れのメールを受け取る。この時は荒れた。
ところが、1年もしないうちによりが戻り、今度は神楽坂に小さい部屋を借り、猫も飼い始めた。小さい猫が育っていく姿と、それを一緒に可愛がっていく様子は、十分にほのぼのとするものだった。神楽坂の夜は、三宿に劣らず魅力的なお店で溢れていた。それからのことはかくかくしかじかだ。
2本目のタバコに火をつける。
これを最後のタバコにしよう。晴れた空を見ながら、その煙の行き先を目で追う。
僕は、薄い白い煙が秋の青い空に向かって消えていく、その小さな軌跡を追いかける。1つ目が消えていき、2つ目が見えなくなり、3つ目が霧散する。彼らはどこに行ったのだろうと思う。今、確実に僕の体から吐き出された彼らは、ほんの少し前までは、確実に山手の中、少し西北のこの地の空気の中に存在していた。僕はその姿を間違いなくみている。でも、数秒後、彼らは揃って皆、この都会の住宅地の上空の中で、見えなくなる。
彼らはどこに行ったのだろう?
今、ここにあったもの、確かにあったものですら、僕には、どこに行ったのかがわからない。
僕は、彼女の心がどこに行ったのか、彼女がどこへ行ってしまったのか、最後までわからなかった。ほんの1週間前までここにいた彼女が、一体どこに行ったのか、物理的な居所も知らないし、その心のいどころもわからない。11年かけて、彼女はまるでタバコの煙のように消え去っていいた。
急ブレーキの大きな音がする。同時にいくつか車のフォーンの音がする。僕はその音に驚き、タバコを足元に落とす。タバコはもう少しで僕の裸足の足の甲に落ちそうになりながら、僅かに左足の横に落ちる。フィルターまでもう1センチ程度のタバコは、少し勢いをつけて煙を出している。
僕はそのタバコを足で踏もうと思ったけれど、裸足であることを認め、思いとどまった。思いとどまり、そのタバコをじっと見つめ、じっと見つめているうちに、どうしようもない、今ままで感じたことのない気持ちが込み上げてきた。
怒りだ。
どうして、どうして彼女は三度も僕を同じような目に合わすのだ。僕のどこにそのような欠落があったのだろう。
もちろん、そこには何かの不足があるのだろう。しかし、彼女は、僕に対して、そのことをきちん話をしてくれたことはなかったはずだ。何かの不満を持ち、その不満を僕に向けることなく、別な形で別な男に向けていき、僕に気づかせることもなく、新しい巣へと飛び去っていく。そして、ふとしたきっかけでまた戻ってきたと思えば、英気を養った後には、同じように一人で冒険に出ていった。
彼女に、僕を、そのように扱う権利はないと思う。彼女は僕の大事な青春期間を搾取するべきではなかった。確かに、彼女が言うように、僕に、僕の振る舞いに、大きな問題があったのだろう。しかし、それは、同様に、彼女の問題でもあるはずだ。僕だけが問題であったはずがない。それに対して、あたかも僕に問題があるから、私は出ていくのは当然だと言うのは、こうして考えてみれば、あまりにも一方的すぎる。
ふざけるな、と小さく口に出してみる。
誰かに対して、止めようのない怒りを感じたのは初めてかもしれない。
タバコが燃え続けている。煙はさらに勢いを増す。
3度目の献身についていえば、僕は彼女の命を救ったと言っていいはずだ。そこには男性としての下心はあった。確かにあった。でも、だからこそできることであって、僕はその自分の下心に対して、ほとんどの場面で、彼女の回復を優先した。僕の献身無くして、彼女がこうまでもしっかり回復するのは難しかったのではないかと思う。あるいは、もっと時間を要したのではないかと思う。
彼女はそれに対して感謝はしているだろう。僕が思っているよりも、きっとずっと感謝をしているのだろう。
でも、僕はそれでは納得できない。やはり、見返りがあるべきだ。一体僕は、この3年間、彼女を支えたことで、どんな見返りを得たのだろう?どんな報酬を得たのだろう? とりあえず言えるのは、毎月20万近い家賃を負担し、その退去費用を負担し、貯金は使い果たし一人で練馬の奥地に引っ込んでいったと言うことだ。
なんと馬鹿馬鹿しいことか。なんと無駄なことをし続けてきたことか。
僕はベランダの欄干に両手をかける。
そして少し身を乗り出して、下界を歩く人間どもを見やる。
みんなおんなじさ、みんな彼女と同じさ。
みんなくだらないやつばかりだ。みんな欺瞞的なやつばかりだ。
左の奥歯を噛み締める。噛み締めながら、大きく息を吸う。
その時、僕はタバコの煙の匂いがしなくなっているのに気づく。地面に落ちたタバコはそのまま燃えていき、フィルターを焼ききり、跡形も無くなっていた。タバコとは違う、プラスティックが燃えたような嫌な匂いだけが残っていた。
吸い込んだ息を、ゆっくりと口から吐き出す。
彼女が言った言葉を思い出す。
「あなたは、私に怒ってくれなかった」
そうなんだ。僕の怒りなんて、このタバコの煙と同じなんだ。小さく燃え、けれど最後には異様な匂いを放って消えていく。今がまさに、その異様な匂いを放つときで、僕は怒りに苛まれているけれど、もうじき消えてなくなるはずだ。
それだけのことさ。
彼女はわかっているのだろう。それが「僕」という人間であり、彼女には、それが許せないと言うことが。
そして、僕が、やはり今そうであるように、「変われない」ことも。
多分、彼女は僕に期待をしていた。そして、三度までも同じ時間を過ごした。
けれども、結局は、人間に宿っている、遺伝子に刻み込まれた印のようなものは変わらないのだと言うことを、僕を見て思ったのだろう。
僕は、案の定3本目のタバコに火をつけた。
そうして僕は、もう一度、僕自身が、本当の自分であれる世界を探しに出る。いつかそう言う世界が見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。けれども、とりあえず探しに行こう。探しにいくべきよ、と彼女が言っている気がする。
何のために?もちろん、世界のために。世界に、少しでも僕が役立つために。(完)

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