(8)下田の弁天島から
- いのきち
- 3月5日
- 読了時間: 7分

翌年の春に、会社を辞めることを決めた。
最終的に会社に対しての後ろ髪を断ち切ったのは、子会社での営業数字の不正計上について、僕や一部の社員がそれを問題にして騒いだことに対して、本社の役員や子会社のトップが一緒になって糾弾をしてきたことだった。
理不尽な会社だった。
本社役員と子会社社長と役員が8人集まって、寄ってたかって僕を吊し上げた。メールのログで裏を取り、どの社員とどんなやりとりをしていたかを突きつけられた。不正をしていたのは彼らだけど、それを社員と一緒になった明るみ出そうとしたのは確かに僕だ。しかし、どちらが問題行為をしているのかは言うまでもない。けれども、会社としては、僕の行為を不正と断じ、子会社の中で閑職へ移動を命じられた。こんな状態ではこの会社も潮時だなと思った。
退職を決意し、時期を伝えて、それと合わせて、新しい事業を立ち上げるための場所を探し始めた。
候補エリアは既に頭にあったので、自転車を借りて隈なくそのエリアをまわり、候補となりそうな物件をプロットし、手当たり次第電話をした。話として進められそうな物件を2つに絞り、契約をしたのが2月。会社を登記したのも2月22日。3月に会社を辞め、1週間だけのんびり旅行をし、4月の中旬から施工やらの準備に入り、5月末に開業した。
開業する前の4月の後半、GWの前に、下田に4日間連泊をした。
吉田松陰に傾倒していた時期で、黒船が来た時、彼が下田の弁天島から小舟を漕ぎ出してポーハタン号に向かったことがとても気になっていて、自分自身をそれにラップさせてみたかった。
下田駅から少し離れた国道沿いの海の近くのホテルに泊まり、初日と2日目は部屋にこもって「講孟然箚記」を読みながら、彼の解釈に対して注釈をつけていった。作業に疲れたら、平日の閑散とした下田の街を歩き、海沿いを特にあてもなく歩き続けた。
3日目の夜、弁天島に歩いて行き、龍神宮を抜けて、真っ暗な駐車場を歩き、松蔭と金子重輔の像がある踏海の朝に立ち、海を見わたす。
暗闇の向こう、下田湾の真ん中あたりに、ポーハタン号以下7隻が停泊している。
その明かりはどんなふうに見えたのだろう。
彼ら2人は、この島の岩場に隠れ、小さな小舟を引いてきて、闇夜をアメリカに向かって漕ぎ出す。
必死、とはまさにこのことで、進むもアメリカ海軍が受け入れてくれる見込みはなく、戻れば幕府に捕まるのは必定。しかし、彼には、行動することが世界を変えることであり、その結果に意味はなかった。
その心を感じたかった。
その熱量を感じたかった。
4月の下田の夜はまだ十分に寒い。僕の目には、細々とした蛍の光のような漁船の光しか見えない。左の奥の方から、時折点滅をしながら右下へと移動するその光をただただ追っていると、急に体に震えがやってくる。寒いからではない。胃の奥のあたりが少しずつ震え出し、その震えがだんだんと全身を小刻みに揺らし、そして止まらなくなる。
僕は体をギュッと縮める。肘を折り、お腹の脇に強く引きつけ、首をすくめ、それでもその光を見る。何かを守るように、僕の中の大事な何かを守るように、無くならないようにと祈りながら。
風のない夜で、僕はしばらく体の震えを抑え続けていた。
でも、体の震えは速くなったり、緩くなったりしながらも、僕の中に居続けた。その代わりに、漁船は停泊先を見つけ、その明かりも役割を終え静かに消えていった。
たとえ、体の震えがおさまらなくとも、心の揺れが止まらなくとも、もう走り出すしかない。
ただそれだけを思い、僕も急いでホテルに帰った。僕は松蔭ではないし、松蔭になろうというのは間違いだ。
僕は僕でしかない。そこから逃げ出すことは、きっとできない。
彼女はその間、応援はしてくれたし、だいぶ事業も軌道に乗ってきて、僕らに借りていたお金も少しずつ返してきた。そして、彼女の方も新しい店舗の準備を始めていった。
お互いがお互いの事業を中心に生活が進むにつれて、一緒に過ごす時間はじわりじわりと減っていった。ただ、それは決してネガティブなことではなくて、積極的なすれ違いに思えていた。
僕の事業の立ち上げは決して順調ではなかった。
ただ、今思えば、自分で教室を運営したことはないし(コンサルタントとして関わったことはある)、店舗だってしっかり現場に立つのは初めてなのであって、そんな状態でいきなりたくさんお客さんが来るわけがない。なんとか少ない生徒に対して一生懸命になっている中で、3月11日の地震があった。
僕は教室にいて、一生懸命コピー機を押さえていた。教室にある最も高価なものはコピー機だった。彼女も自分の店舗にいて、トレーニング機材が飛んで行かないように押さえていた、と言っていた。
僕は、東北で仕事をしていた期間が長いので、震度6強の地震を複数回経験していて、この時の揺れはそれに比べるとそこまでの揺れには感じなかった。ただ、とても長かったので、これは大きな地震だなと思っていると、近くの交番の警察官が「宮城で震度7!」と叫んで回っていて、ああ、これは大地震だなと感じた。
それでも、教室というのは不思議なところで、その日の午後、今日は休みにしますという電話やメールをできる限り入れたけれども、連絡のつかなかったご家庭のうち、何名かが普段の時間通りにトコトコと歩いてやってきた。「え、今日は授業ないの」と言って喜んで帰っていったり、家に連絡がつかないからしばらく教室にいたい、という子もいた。
電話が通じにくい中、インターネットのUstreamで地方の誰かがNH Kのテレビ放送をストリーニング配信していた。
それを通じて地震の様子と、その後の壊滅的な津波の様子を見ることができた。
あの、仙台の部屋から見た、仙台平野の海側の多くの部分が津波に襲われていた。気仙沼では、よく行ったラーメン屋さんの向こうが一面火の海になっていた。石巻の日和大橋の近くのガソリンスタンドは、完全に津波に飲まれていた。
東京では電車が止まってしまい、電話もほぼ通じないので、教室を夕方に閉めて、僕は自転車で神楽坂に向かった。杉並方面から都心に向かう早稲田通りは、車が完全に止まっていた。どこが渋滞の先なのか全くわからず、ほとんど動きがなく、その脇を、都心方面から大量の人間が歩いてきた。僕はその流れに逆らう形で、ゆっくりと自転車を東に向かって転がしていく。いつもは30分くらいで着くとところが2時間くらいかかって神楽坂付近についた。彼女はまだ帰っていなかった。
テレビをつけ、様子を見ると、すぐにマンションの下の薬局に行き、乾電池とホッカイロ、そしてビールをたっぷりと買った。乾電池については、200個くらい、ホッカイロは数え切れない。ビールは4ケース買い込んだ。食べ物は何かかしら家にあるだろう。電気が止まっても、電池があれば携帯は生きるだろうし、ホッカイロがあればエアコンが死んでも布団にくるまれば大丈夫だろう。そんなことを咄嗟に考えた。
彼女が歩いて家に戻れたのが夜の10時過ぎ。歩いて帰るのに5時間かかったということだった。
テレビから流れてくる津波のありようと、頻繁に起こる余震は、一晩中僕たちを寝かせてくれなかった。日本中がきっとそうだったと思う。
その日の夜は、彼女とたくさんお酒を飲んだ。
「こんなに飲んで、もしも大きな余震が来て逃げなければならなくなったらどうするの?」
「大丈夫だよ。このマンションが倒れるような地震が来たら、東京もおしまいさ。逃げたってしょうがないよ」
「なるほど。じゃあ、たくさん飲んで、死んだように寝よう」
テレビを消して「24時間」のDVDを入れて、こたつに入りながらビールからワイン、そしてウイスキーを飲んでいく。でも、余震の揺れには勝てず、あまり寝ることはできないまま翌日を迎えた。
翌日は、僕も彼女も、それぞれの事業所に向かった。僕は、来週以降の連絡をしたかった。彼女は、今日来てしまうかもしれないお客さんに対応したいということだった。事業を始めれば、どんなことよりもまず、自分の拠点のことが気になるものだ。
Comments