猫人 (3)
- いのきち
- 1月29日
- 読了時間: 5分

しかし、それは錯覚とは思えなくなってきた。
次の日も、その次の日も、ふとした時に、誰かに後ろから見られている、あとをつけられているような感じに、繰り返し繰り返し襲われた。学校の廊下で、駅のホームで、コンビニのレジで待っている時に、家の中で机に向かっている時に。
何かがいる。誰か、いや、何かが見ている。確実に。けれども、振り返っても何も見えない。誰もいない。
だからと言って、何か僕の日常が変わったわけではない。いつも通りに時間は流れていく。彼女とは毎朝一緒に行くし、部活はしっかりと頑張っているし、勉強はそれなりに適当にやっている。午前中は早弁をして、昼は購買でパンを買い、友達のお弁当を漁る。
普通の時間と普通の毎日。
何かに追われているような気持ちを、いつも感じるわけではない、ほんの一瞬、1日数回だけ。
だけど、確実に。
彼女との2回目のデートの約束は10月の後半の部活のない日曜日になった。その前の週の土曜日の朝に約束をした。この前と同じ駅でボーリングをする。
その日、部活を終えて夜の8時過ぎに最寄りの駅につき、いつも通りに森へ向かう。そういえば今日は一度も振り返らなかった。ほぼ1日部活だったからかもしれない。
森へ向かう。森の手前はこの辺りでも最もきつい急坂で、その右手には中学校がある。僕の通っていた中学校とは違う。夜の中学校はいつ見ても不気味で、森よりも、坂道が中学校の横を通るあたりが、なんといってもも好きではなかった。
もう少しで森に入るというところで、少し肌寒くなってきた空気が、ぬっと揺れる。
いる。
確実にいる。まちがいない。
中学校のフェンスの横に、誰かがいる。そう感じる。フェンスが揺れた感じがした。
これまでとは違う。僕は明らかに、存在を感じる。
僕は立ち止まる。意識を暗闇の揺らぎに集中する。
人の足音がする。スニーカーだろうか、やわらい足音が。確実にこちらに向かっている。
僕は思いをきめて振り返る。
そこには、猫の被り物をした人間がいた。
おぞましい姿だった。
耳は頭の両脇から台形にフニャけて広がり、真っ黒で、10センチほど伸びている。毛は全面的にこれ以上ないほど黒い。鼻筋は鋭く三角になっており、その両脇の目は人の目の10倍もあるだろう大きさで、白目部分は薄黄色く、瞳は右が右上によって人魂のようになっており、左は真左に寄って雨の雫のようになっている。
ほほは右側が大きく膨らみ、頭の端より5センチははみ出て、黒い毛が乱雑に生え散らかっている。左のほほは下に垂れ下がっていて、こちらも頭より数センチはみ出ている。口は半円よりも横に大きく広がっており、下から牙とも歯ともいえないものが2本だけ見えている。顎からはお腹のあたりまであごひげが垂れ下がっている。
体は全身真っ黒なタイツか何かで、その上に黒いコートのようなものを着て、足は黒いたびのようなものを履いている。
身長は僕よりもだいぶ大きく180cmはありそうで、顔が全体の3割くらいを占めていて、異様に大きく、体は筋肉質に見えた。
頭は明らかに猫の被り物で、胴体より下は人間のそれだった。
猫人と僕は目があう。
あまりの醜さに、醜悪さに言葉が出ない。
猫人は僕の一歩手前まで来る。
逃げ出したいと思う。あらん限りのスピードで逃げ出したいと思う。しかし体が動かない。声も出ない。
「お前は人間として、考えるうる限りの最低な野郎だ」
猫人は言う。思ったよりは高い声だ。どす黒い声と言うわけではない。
そして、次の瞬間猫人の右足が僕の左の腹に突き刺さる。今まで受けたどんな痛みとも違う切られたような痛みが突き刺さる。
「お前は生きている価値のない嘘つき野郎だ」
猫人の右手が僕の顔を打ち付ける。僕は吹き飛ばされる。猫人の力は僕のそれよりも相当強い。
「お前が彼女に話したことは全部作り話の嘘っぱちだ」
痛みで頭が良く回らないが、僕はその言葉にどきりとする。違う、そんなことはない。しかし、言葉にはならない。
「お前は野球で県セレクションになど選ばれていない」
「お前は、W高校の練習になど行っていない」
「お前は、肩など壊していないし、どこも悪くない」
「電車も乗り過ごしていない」
猫人は右足で僕を踏みつける。肝臓の下あたりをえぐる。
違う、違う、そうじゃない。僕は叫ぶ。しかし声にはならない。
「お前の中学の野球部は地区大会までしか行っていない」
「学校の中でも決して実力が上だったわけではない」
「近くの高校の練習に行ったが、全く歯が立たなかった」
「それでもう野球は無理だと思った」
「野球から逃げたんだ」
猫人は僕に唾棄する。大量の唾を吐く。生ぬるい液体を大量に吐きつける。
「お前は彼女を騙した」
「彼女を騙して自分を偽った」
「それでいて、したり顔をして彼女と付き合おうとしている」
「お前は本当のクソ野郎だ」
右足のえぐりがきつくなる。僕は呼吸が苦しくなる。
でも、そうじゃないんだ、別に騙すつもりなんてなかった、ほんの少しだけ話を飾っただけだ、そう叫びたい。でも、声は出ない。
「何も言えないのか。そうか、やっぱりそうなんだな!」
猫人は声を荒げる。声を荒げると余計に声が高くなる。
「お前のような人間のクズは生きている価値がない。この先も人を騙し、自分でほくそ笑み、世界を汚していくだけだ」
「お前たちのような人間をこの世にそのまま生かしておくことはできない」
猫人はコートの右のポケットからナイフを取り出す。刃渡りは10cm程度。大きくはない。しかし、この暗闇に一条の光のように白く輝く。異様に輝く。まるで、世界で最も輝くもののように。
僕は大声で叫ぶ。何かを叫ぶ。しかし、声にはならない。
猫人の右足はより強く僕を踏みつける。意識が遠のく。目にはナイフの光だけが見える。
猫人は暗闇の中、その口をさらに横広げる。笑ったように見えた。
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