猫人 (5)
- いのきち
- 2月5日
- 読了時間: 5分

それでも時が経つとともに僕は猫人の存在を忘れていく。
大学に入り、特に目的もなく社会人になり、忙しさに振り回され、日本のあちこちを飛び回り、そうこうしているうちに30歳を超えてその半ばに差し掛かるころに、大学のラグビー仲間の同期の中では後ろから3番目に結婚して、もうすぐ子供が生まれようとしている。
猫人のことなど思い出すことは全くなかった。
しかし、35歳の冬。僕はあの坂道の、あの森の前で猫人と会う。猫人は、今度は森の入り口に立ち、僕の正面に立っている。
猫人は以前とおなじ猫の被り物をし、全身黒づくめで立ちはだかる。だけど、僕は以前のように驚かない。はっとはしたが、逃げようとは思わない。その代わり、全身の細胞という細胞から、猫人への憎悪が湧き上がってくる。文字通り、憎悪で沸騰する。細胞内のミトコンドリアから憎しみのエネルギーが全身に供給され、僕は猫人を激しく憎む。
猫人はそんな僕を見ている。ただ見ている。以前と違い、少しもの寂しげに見える。しかし、この世で最もおぞましい姿をさらけ出していることには変わりがない。
僕はそんな猫人を見て憎悪に体を震わし、少し歩を緩めながらも、そろりと猫人に近づいていく。そして、あと2m、というところで右手に全ての憎しみのエネルギーを集めて、猫人の心臓めがけて殴りかかる。
僕の右の拳は猫人の心臓をえぐる。すぐに僕はさらに右足で猫人に前蹴りを食らわせる。
猫人は3mほど吹っ飛んで倒れる。鈍い音が森に響く。
僕は倒れた猫人に飛び乗り、腰の上にまたがり、心臓と顔を殴打する。何回も何回も何回も。何回殴っても殴っても、僕の細胞から憎悪は消え去らない。それどころか、殴れば殴るほど、憎悪は快感へ変わっていく。僕は自分をとめられなくなった。
猫人は何も言わない。痛いとも言わない。黄色い目の中の瞳がかすかに揺れ、口が少し歪む。しかし、抵抗もせず、言葉も発しない。
僕は心を決める。
殺さなければならない。
こんなに邪悪で醜くて不快でおぞましいものは、この世から消し去らなければならない。それは数学の公式のように、覆すことのできない証明済のこととして僕の頭を覆い尽くす。
カバンの中からボールペンを取り出す。大学卒業後に付き合った彼女からもらった青いボールペン。僕はそのボールペンを振りかざし、全ての細胞の憎悪を集中させて猫人の心臓に突き刺す。狂ったように突き刺す。何かを叫んでいるが何を叫んでいるのかは自分でもわからない。しかし、何回も何回も何回も突き刺す。なぜか血は出ない。一滴も出ない。しかし確実に猫人は弱っていく。僕は弱っていく猫人の息遣いを感じる。そうすると、僕の憎悪はまたエクスタシーへと変わる。
何分経ったかわからない。僕は最後の一撃を全身の力を振り絞り猫人へ突き刺す。
猫人の首の力が抜ける。森の地面に猫人の首が45度傾く。
猫人は死んだ。間違いなく。僕にはそれがわかった。
でもまだだ。僕は自分に言い聞かせる。この猫のおぞましい被り物を取らなければならない。この被り物をとって、この下にある顔を僕は見なければならない。
僕は猫人の被り物に手をかけようとする。
その瞬間、傾いた猫人の目の中の瞳だけが僕をぎょろりと見る。息絶えたはずの猫人の瞳だけが僕を見ている。
僕は恐怖におののく。
これはなんだ。
もしかしたらこれは人間ではないのかもしれない。
猫人は本当の猫人で、人間とは違った得体の知れない化け物なのかも知れない。
僕の全身の細胞から、恐怖と後悔の汗が吹き出る。
なぜか辺りには誰もいない。こんなに激しく猫人を襲っているのに音がまるで出ていない。猫人の目は恐怖におののく僕を見ている。動いてはいない。しかし明らかに見ている。
僕はどうしていいかわからなくなる。手が動かなくなる。足が動かなくなる。猫人にまたがったまま硬直しいてる。
ふと、小学4年生の時に、万引きをしたことが頭をよぎる。ゲームの攻略本が欲しくて、お小遣いを持って、どうしても2冊欲しくて、1冊は自分のカバンに入れて、もう1冊はちゃんとレジで会計をした。僕の中では完璧だった。しかし、店主は僕のカバンを取り上げ、抵抗する僕の手を振りほどき、カバンの中から本を取り出す。その時の硬直と似ている。
僕は目をつむる。落ち着け。これは現実だ。猫人が化け物であるわけがない。どう論理的に考えても、これは猫の被り物をした人間に違いない。今の目の動きは錯覚だ。だいたい被り物の目が動くわけがない。落ち着け。僕は猫人を殺した。それは、猫人の正体を知らなければならないからだ。この邪悪で不正義で社会悪で見にくいおぞましい生き物のの正体を世界にさらさなければならない。それが僕の使命だ。
顎から伸びる長い毛の下に手を入れる。顎と胴体の黒い服の間に明らかに切れ目がある。その切れ目に右手の中指と人差し指を入れる。生温かい人間の温もりがその下にある。まちがいない。大丈夫だ。
僕は目を強く見開く。左手で猫人の肩を押さえて右手で猫の被り物をはぐ。今こそ世界に猫人の不正義を晒すために。僕は正義の儀式を行う。
被り物は簡単に取れた。そしてその下から出てきた顔を僕は見る。確かに見た。
目が覚めると僕は産婦人科の待合室にいた。昨日まで仕事が津波のように押しかかり、この2週間は毎日2、3時間しか寝れていなかった。今日はそんな中、午前中は妻の検診に付き添っていた。
妻は妊娠6ヶ月。来春僕たちには子供が生まれる。検診を終えた妻が僕にいう。
「大丈夫?」
「多分。どうだった?」
「順調順調って」
「こっちもさ」
僕の右手には猫人の被り物がある。もちろん妻には見えない。
最後まで、「なぜ猫なのか?」がわかりませんでした。主人公が幼少期に猫と何かあったエピソードでもあればよかったかも?猫人のトップ画像が紙の小説の表紙のように惹きつける効果があると思うので、「なぜ猫なのか?」がわかる描写がないとスッキリしないかも…
1話目に猫人が登場しなくてどんな展開になるのか不安になりました。
漫画の新連載で最初の2ページ分くらいで世界観がなんとなくわかったり、興味を惹きつけるように、導入に工夫があるといいのかもしれません。
文章は読みやすくさすがでした。