(3)不祥事と石神井公園
- いのきち
- 2月18日
- 読了時間: 4分

夏の中頃になっても、僕は彼女に対して何かを決断するようなことはできなかった。
その代わりに、仕事で大きな事件を起こしてしまった。
世の中がお盆休みの頃、ちょっとしたコンサルティングを取り組んでもらっている会社が、温泉旅館で研修と社員の慰労会をするということで、吉田先生にもきてほしいという依頼を受け、1時間ほどの研修を受け持った。内容は大したものではないけれども、一応「先生」という扱いになるので、田舎の若い社員のたちはそれなりに喜んでくれた。
その日の夜は温泉旅館に泊めてもらい、大いに接待を受けた。接待というか、とにかく飲まされ続けた。社員は70名くらいで、大概がまだまだ若い男性で、その一人一人が皆、ビールを持って今日の講師陣の前にやってきて乾杯をしていく。僕の他の講師はそこそこ年配の人たちなので、「いやいやもう結構」で許してもらっていたけれど、僕はまだ三十手前で、「まだまだいけますよね」ということで、本当にほぼ全員からの献杯を受けた。
そこから先の記憶がない。
後日聞いたところによると、僕はその日の深夜、一緒に部屋を用意してもらったていた講師の先生を、部屋の中でどういうきっかけか、思い切りタックルをしたようで、彼は後頭部から壁にぶつかり、頭から結構な出血があり、救急車が呼ばれ運ばれていった。幸い、少し縫う程度の怪我で、怪我そのものは大したことはなく、また、宴会も宴会で盛り上がっていたことや、その先生もずいぶん酔っ払っていて引け目のあることもあったようで、出来事としては大ごとにはならなかった。
しかし、会社には当然に報告され、僕はその事件の2日後に、担当部門の常務から電話を受けて東京に呼び戻された。「今から東京に来い」ということだった。だって、も、しかし、もなかった。家?そんなものは後でなんとかしろ、ということだった。
僕自身は、東京に戻って、常務から始めてことの次第を聞かされた。
仕事関係でお酒を飲んで大きな事件を起こしてしまうのは、この1年で三度目だった。1度目は青森でタクシー運転手に絡んで一晩留置所で寝た。二度目は、銀行のお偉いさんを、カラオケの場で、彼のネクタイを取って地面を引き摺り回してしまった。
「絶対に日本酒は飲むな」
と言われていて、そうしてきたけれど、どうもこの三度目も夜中に日本酒を飲んだらしい。
謝る前に、これはもう終わりだなと思った。何かの法的な責任を取らないといけないかもしれないし、少なくとも、この会社での仕事はもはや無理だろう。当たり前だ。
常務と、法務の担当役員からも事情を聞かれた。わかる範囲は答えたけれども、僕の答えることよりも、彼らの方が当日の僕の様子をよく知っていた。
直接の上司である執行役員は、妙に優しかった。優しいというか、慰めるというか。哀れに思っていたのか。とにかく、いつものがなり声はなくて、なんとかしてやるから、みたいなことを言われた。
一通りお偉いさんとの事情聴取を終え、「どうするかは月曜日に伝えるから」と言われた。
クビになるのかなと思っていたけれど、思いのほか処分は緩くて、新しくできた子会社への出向ということになった。役職も何もない、単なる社員として頑張ってこいということだった。被害にあった相手の方が、逆にとても僕のことを庇ってくれたらしい上に、宴会を催した社長が自ら上京して、無理して飲ましたのは私たちですので、どうか穏便にしてあげてほしいということを直訴してくれたらしい。なんとも有難い話で、会社に入ってから始めて、人の温情に涙した。
そこからは手早かった。引っ越しは手慣れたもので、すぐに仙台の家を解約し、返す足で池袋の不動産屋へいき、石神井公園のマンションを契約した。前から、次に東京で家を借りるならば石神井公園と決めていた。荷物は、週末にハイエースを借りて、東北自動車道を深夜に北上し、詰められるだけ詰めて、そのまますぐに東京に持ち帰って、とにかく部屋にいれるだけはいれた。
慌ただしい夏だった。彼女が死にそうになり、僕は誰かを危うく殺しそうになり、会社をクビになりかけたけれど、周りの人の好意でなんとか生かされて、急ピッチで引っ越しや新しい会社への出向をし、なんとか8月中には新しい家で、新しいコーヒーメーカーを買って、近くにお気に入りのコーヒー豆屋さんを見つけることができた。引き立てのマンデリンの匂いは、少しだけ心をリラックスさせてくれた。
しかし、マンデリンの少し酸味の強いコーヒーをブラックで飲んだ時、このコーヒーを好きだったのは、僕ではなくて彼女だったことを思い出した。
そうだ、彼女を見舞いにいかなければ。
東京に戻った今、彼女に会っておくべきだろう。話してあげたいことがある。彼女は何も話さなくていい、ただ、僕の身に起きたひどい話と、だけど、温かい話、それと、石神井公園の様子を話そう。石神井公園に住んでみたがっていたのも彼女だ。きっと、少しは、温かい気持ちになってくれるのではないだろうか。
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