(5)下心と無償の愛
- いのきち
- 2月21日
- 読了時間: 7分

秋の午後をなんとなく江戸川橋まで歩く。夏目坂を降りて、早稲田通りを歩き、突き当たりを左に向かう。祝日の神楽坂の下あたりは人が少ない。
思いのほか元気そうだった彼女に少し安心する。変わらない憎まれ口が少しこそばゆい。
江戸川橋から地下鉄に乗る。西武池袋線へ直通の便を選び、石神井公園駅に戻る。夜ご飯まではまだだいぶ早い。
石神井公園駅を出て、南口から商店街を抜けて石神井池のほとりに出て、散策道を一人で歩いてみる。
太陽は随分とオレンジがかった色になってきて、少し眩しい。半袖で十分な秋の夕方の前、犬の散歩や、連れ立って歩く老人たち、池のほとりで何が釣れるのか、釣りをしている人も多い。子供が僕の横を駆け抜けていく。親と思しき人が、それに対して何かを言う。
僕はそんなごくごくありふれた祝日の午後を歩きながら、彼女のことを考える。
思いのほか元気そうに見えたこと。仕事のこと。あえて触れないうつ病の原因のこと。病院で昼間からビールを飲んだこと。明らかに最初は緊張気味だった顔が、お酒の影響もあってか、だんだん見慣れた表情に変わり、饒舌になっていったこと。いつもながら僕の所業に手厳しいこと、などなど。
そんな1つ1つを思うと、僕の中にはまだ、彼女に対しての好意が明らかに残っていることを認めざるを得なくなる。二度も無碍に袖にされながらも、まだ。客観的に考えてみれば、なんとも情けなくも見えるけれど、でも、ごく自分の個人的な問題として見てみると、結局そういう性質なんだよ、僕は、と言う気もする。
同時に、僕の中にはもう1つ別の気持ちがあることもはっきりと感じる。
異性として、恋愛の対象としての女性ということだけではない感情が。彼女という稀有な才能を、しっかりと支えることができるのは、もしかしたら僕しかないのかもしれないという、ある種の使命感にも似たような気持ちが。
もちろん、そんなのは僕の思い違いや思い上がりであるかもしれない。
けれど、彼女はお父さんとは絶縁状態にあり、お母さんはハイカラな明るい方だけど、今のような状況で、何かの役に立つかというと難しい人だ。ただただ一緒におろおろとするだけだろう。そして、苦しんでいる彼女の前で、自分がいかに不幸かを延々と話してしまうようなタイプだ。会社の同僚や、関係者は彼女には触れにくいだろう。何しろ、問題の根源が会社の執行役員で、場合によっては次期社長かもしれな人だ。友人関係についてはあまり詳しく知らない。ただ、普通にみると、相当にめんどくさい状況であって、なかなか何かを手伝うというのは難しそうに見えるだろう。
僕は、一応彼女のことをよく知っている。あの、人の痛いところをどんどんついてくるデリカシーのない言動は、実はそこには結構優しさがあることをきちんと知っている。会社の上司に対してあれこれ気を使う必要はない。どうせもう死に体だ、会社での僕は。彼女の取り組んでいる事業に対してもある程度の理解がある。
”どうしたら退院できるの?”
その日の夕方、僕は彼女にメールをする。まずは、病院から出るべきだろう。決して狭くもないし、不潔でもない。割と恵まれた病室に見えたけれど、それにしても、彼女の精神は、あそこにいればいるほど腐っていくように見えた。彼女は、日に当たるところにいないと、どんどん根ぐさりをしていくタイプだ。外へ連れて行き、太陽に当てなければいけない。逆に、太陽にあたればあたるほど、どんどんと輝きを増す。
返信が来たのは、数日後の深夜だった。
”寝れない”
”退院したいけれど、先生が言うには、一人で暮らすのはダメだという。できれば、親と一緒に住むように言われている”
”だけど、あの母親とは、私は絶対に一緒に住めない。逆に発狂する”
”だから、今はここにいるしかない”
僕は土曜日の朝にそのメールを見る。何度も見る。
なるほど。この方程式は、公式を知らない彼女には解けないだろう。だけど、男性である僕には、簡単な公式をあてはめて仕舞えばいいように見えた。
“おはよう”
“僕が引き取ろうか、あなたを”
言いたいことは伝わるだろう、これだけで。返信はすぐに来た。
”でも、申し訳ない、あなたに”
”もう迷惑をかけたくない”
この文面は、僕にある種の謎をかけてくる。申し訳ない? 迷惑をかける?
つまり彼女は、僕と一緒に住むことで、僕に申し訳ないと思っていると言うことであり、それによりさらに迷惑をかける可能性があると言っている。そこには、僕にとって1つの大きな冷然とした事実が含まれている。
「あなたのことはもう好きではないの」
だから、助けてもらうことが申し訳ないし、迷惑に当たってしまう、と言うことだろう。
それで?と思う。
それで、彼女はこの後に何を言いたいのだろう。彼女は、僕を恋愛の対象としてはみれないから、僕に助けてもらうことはできないと思っているのだろうか。
男と女だから、恋愛関係でなければ、誰かを支えることは良くないことなのだろうか? できないことなのだろうか? してはいけないことなのだろうか?
僕の心の中に、彼女に対しての好意が生きており、故に彼女に対しての下心がないとは言えない。だけど、その心がありながら、それを満たされないと認識をしながら、一人の女性を、一人の男性が支えていくと言うのは、現実として存在しない事案だろうか? あるいは、何かの信義則に反するのだろうか?
下心3割、無償の支援7割、その心は欺瞞だろうか?あり得ないことだろうか。
違う、きっと違う。
僕は人間だ。人間ならば、恋愛感情(生殖のための行為)とは別の感情をもとに異性を助けることはできるはずだ。
”あなたが、僕に恋愛感情を持てないとしても、僕はあなたを支えることができると思う”
”そして、自慢じゃないけど、今、世界で、僕より本気であなたの復活を支えたいと思っている人は、いないのではないかと思う”
”それと、世界で、僕より、あなたが回復することを楽しみにしている人もいないかもしれない”
自分の文面に少し自分で照れくさくなる。でも、これは、急いで伝えるべきだ。時間をあけてはいけない。
彼女からの返信はしばらくなかった。
僕はこの春にできた新しい子会社の一部署に放り出されたけれど、意外と「本社からのお目付役」のように見られて、結構にいい立場として立ち回れていた。
具体的に言えば、子会社の立ち上げ現場で渦巻く不満を、しっかり吸い取り本社に上げていくと言うようなことで、僕自身は、本社側では中堅どころのマネージャーとしての立ち位置があったので、役員クラスとも普通に話ができる。(怒られてばかりだったけれど)しかし、新しい子会社の方では、幹部陣も含めてそう言う立ち位置を持っている人はいないので、僕に頼ることが多くなっていった。
その結果、僕の仕事量はなかなかのものになっていた。業務中もそうだし、業務が終わった後についても、多くの人たちと連日連夜懇親を図る必要があった。出張も多かった。それこそ、沖縄から北海道まで回っていた。東京にいる時間は週の半分くらいと言う感じだった。思いのほかの様子に、僕自身も自分に対しての自信のようなものも少し取り戻しつつあった。
”まだ、一緒に住んでくれるなら、お願いしたい”
そう彼女からメールが来たのは、年が明けて真冬の2月だった。
まだ、と言う一言に、僕は彼女の心境を察する。たくさん考えたのだろうな、たくさん悩んだんだろうな、と。
”もちろんだよ”
僕は、一瞬で返信をする。
”神楽坂に家を借りるよ”
二の矢もすぐに放つ。
”今度、先生に話をする。その時に一緒に来てほしい”
”OK”
先生との面談はごくごくフレンドリーだった。
薬を減らしていくことがとにかく大事で、そのためには、一人で不安になる時間を減らすことが大事です、とのことだった。
昼間はほとんど大丈夫で、仕事も、メールやエクセルなどでできることはもう取り組んでいるとのことだった。立ち上げた店舗の現場にもいけているし、いった方がいいと。だけど、夜は、一人で暗闇の中にいると、不安に苛まれ混乱してしまうことがあると言うことだった。睡眠薬をどうしても手放せないのだけど、一緒にいるような時は、睡眠薬よりは、適度にお酒でも一緒に飲んだ方がいいくらいだ、とも言われた。基本的には何もしなくていい。普通に一緒に生きてくれればいい。何かを治そうとか、変えようとか、そう言うことは思わないでほしい、ということだった。
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