40歳のラブレター(4)菅平
- いのきち
- 1月5日
- 読了時間: 6分

停滞していた僕の心の前線を大きく押し出すこと契機になったのは、大学4年の夏、菅平での合宿での出来事だった。明確に、前に進まなければ、と思ったのは。
菅平。
ラグビーをプレーしたことのある人ならば、その多くがこの地を通ることになる。きちんとカテゴリーごとに合宿をする時期が分けられていて、僕らのような大学のサークルが各地から集まる時期はある程度決められていた。9月の1週目あたりは、彼の地に全国の大学ラグビーサークルの面々が相当数集まってくる。
僕自身は結局この地に5回いったことになるのだけど、毎回毎回、本当に真っ黒な思い出しかない。もちろんそれは、僕、あるいは僕らだけではなくて、多くのサークルでもそうではあったのだけど、とにかく飲み過ぎであり、とにかく馬鹿騒ぎをしすぎだった。封を開けたばかりのジャックダニエルのボトルと、一度飲み干したそのボトルに麦茶を入れて、男子二人がそれぞれの瓶を持って飲み比べをして、本物を飲んでいる方がどんどん飲んでいく相手を見て「おまえはすごいな!」と雄叫びを上げながらストレートで1本を5分ほどで一気飲みをした先輩がいた。M物産に行った別の先輩は、お尻の穴でロケット花火を掴んで、それを合宿所の窓からなんどもなんども発射したりもしていた。寝ているところを、みんなでエアサロンパスを局部に吹きかけたり、世が世ならS N Sなどを通じて発信されたら大事になってしまうようなことを、毎晩毎晩やっていた。 もちろんそう言うのは、僕たちが特殊なのではなくて、どこでもそんな騒ぎが起こっていたわけで、特別扱いするようなことではなく、誰も、それが何か問題だとも思っていなかった。
そんな騒ぎを夜な夜なしながらも、きちんと朝になると6時前に起きて、朝の練習を9時前までやっていた。なんと言っても、若さというのは大したものだ。
毎回毎回合宿に行く前にはすごく憂鬱な気分になった。あの馬鹿騒ぎと、2日目からの朝のしんどさを思うと、一体なんのために山を登るのかが、全くわからなくなった。けれどもその一方で、心の後ろの方では、今年こそ何か特別なことが起こるのではないかという根拠のない期待感と、高原の少し冷たい空気の中でラグビーの試合ができることに対しての高揚感があって、なんとも不思議な心持ちで合宿へ向かっていった。「今年は行くのをやめよう」といつも思いながら、結局は、「俺がいかなくてどうする」みたいに自分に対して理由づけをして、車を繰り出していった。
この年の合宿中に、夜中に3台の車に分かれて、菅平から草津まで走ったことがあった。
今となっては隔世の感があるけれども、運転手は3名とも随分とお酒を飲んでいた。いや、運転手含め分乗した9人全員が酔っ払いだった。練習が終わって、いつもの乱痴気騒ぎがひと段落して、それから誰かが「温泉に行こう」と言い出して、それに「いいね」という人が集まって、そういえば草津に24時間入れる公営の銭湯があるらしいよ、と言い、ならばそこへ行こうじゃないか、というような流れだった。 3台に別れて菅平の山を下り、国道144号を左に折れて、嬬恋を抜けて左に曲がって県道に入る。この道が狭いし、街頭はないし、なかなか厳しい道だった。車の中はずっと大音量でのカラオケ大会で、大騒ぎではあったけれど、運転する方としてはそれがなければすごく不安を感じる道だった。国道292号に出ても道幅が狭いのは相変わらずで、それでも深夜の道を飛ばすと、菅平から草津までは1時間程度でついてしまって、なんだかすごくあっけなくついたように感じた。 草津の真ん中に適当に車を停めて、早速温泉に入ろうとしたが、何ともまあ、あまりにも小さいし、脱衣場も仕切られていないし、有り体に言えば、汚い!という感じで、男子の面々は嬉々として入って言ったけれど、彼女含め女子勢2名は入らなかった。入れなかった、という方が正確かもしれない。 帰り道は、3台でルートを分けて競争をして帰ることになり、車ごとに地図帳を開いて、どこの道をどうというのを確認しながら、道をなんとか確認して、では、ということで行きと同じメンバーに分かれてスタートしていった。 今思えば、この行為は、死を感じさせる。運転手である僕は大いに酔っ払っているわけで、山道をカーナビもなしに闇夜をぬって50キロ以上を走ろうなど、今では犯罪行為そのものだ。
正直、僕はこの時の運転に対してはとても怖かった。カーブを適切に曲がれるか、正しい道で帰れるか、本当に怖かった。運転にはある程度自信はあったけれども、草津に来る時の道が厳しくて、お酒も入っていて、行きはみんなでつらなってきたからよかったけど、単独で運転して帰ると思うと、とても嫌な予感がした。端的に言えば、事故を起こしてしまうのではないか、と思わないではいられなかった。本音を言えば、誰かに運転を代わって欲しかった。でも、クレスタは僕以外の誰かが運転できるような代物ではないわけで、誰かが運転してくれる見込みはない。一晩草津でやり過ごしてから、いや数時間でもいいからやり過ごしてから帰りたかった。そう言えばよかったのだけれど、車に対しての日頃の妙なプライドもあって言えず、そのまま帰路につくことになり、本当に不安で不安で仕方なかった。同乗していたみなはどう思っていたか。
僕が夜の道によく聴いていたのが浜崎あゆみで、この時もCDチェンジャーに入っていたのは「LOVE appears」で、どうしてもこのCDを聞くと飛ばしたい衝動に駆られる。特に、1曲目から「TO BE」まで。この時も、真っ暗な林道のような道をできる限りアクセル踏んで、窓は全開で走り続けた。カーブを曲がるのは実は不得手で、不規則なハンドリングになる。夏の終わりの菅平の山の中は、所々ひんやりとするところがあって、時折その空気の塊が車内を覆うように降りてくると、何かに触られたような寒気がする。それがふと心のどこかを震わせる。街灯は時折しか見えず、靄のかかる空には星も月も見えず、細かな雨すら道すがら降ってきた。この日本にはこんなにも暗い世界があるのだという中を、僕らは死と隣合わせのドライブを続けた。もしかしたら、そう感じていたのは僕だけかもしれない。乗っているのは、彼女が助手席、彼女と同期のEが後ろの左だった。その帰り道はあまり会話がなく、そう思うと、僕だけではなくてそれぞれが緊張しながら、なんとか菅平に向かっていたようにも感じる。
もしもこの時、事故でも起こしていたら、僕ではなくて、他の誰かの車でも、と思うと心が凍りつく。幸い、3台とも何もなく帰ってきて、誰が一番とか、どこが危なかったとか、そんな話をしていたけれど、そこには本当に紙一重の危険があったと思う。
僕はよほどぐったりした。ほっとしたというよりも、何か不吉な呪縛から解放されて、気が抜けた、という感じだった。車に乗っていて、こんな嫌な不安な気分になったのは初めてで、もっとこの時の気分としっかり自分で向き合っていれば、と思う。
僕はこの6年後に、東北自動車道で明け方4時過ぎに、山形から仙台に向かう途中のR300のカーブを150キロで曲がろうとしてスリップし、ガードレールに突っ込んだ。朝の2時まで山形でしこたま飲んだ挙句の飲酒運転で。もし、お酒と車と、ちゃんと当たり前の自覚ができていれば、たくさんのものを失わずに済んだ。
Comentários